大阪は、海を埋め立ててつくられた都市です。今の大阪市域は、かつて、ほとんどが海か湖で、陸地は上町台地の辺りしかありませんでした。商都の水運を担った掘割も、もとは、湿地帯を陸に変えるために掘った水抜きの水路です。「大阪は水の都」とよく言われますが、人々の暮らしが水辺と近かったというだけではありません。大阪は、人々が水と闘ってきた歴史をもつ、「埋め立て都市」なのです。 |
新田開発の積み重ねでできた土地 |
埋め立てで何を造って来たかと言うと、ひとつは市街地の拡大。新地と呼ばれる町がそうです。もうひとつは、生産のための農地、すなわち新田です。江戸時代、海に堤防を造って内側の水を抜き、土を盛って農地にする事業を繰り返して、今の港区、此花区などが陸地となりました。大きな計画があって、大規模に事業を行うのではなく、民間の開発主の手によって、少しずつ先へ先へと進めてきたのです。古い地図をみると、堤防に縁取られた新田が、ブドウの房のように連なっているのがわかります。現在、この地域の道路の方位が地域によって微妙にずれているのは、堤防や、新田の中の水路や、あぜ道の形が残っているからです。
西へ西へと農地を造って行くと、必然的に、川筋が長く浅くなっていきます。近世以来、川の浚渫は、治水のためにも、海と都心を繋ぐ交通である水運を維持するためにも、非常に重要な作業でした。 |
天保山は、安治川浚渫の土でできた |
天保年間に、官民が協力して、大規模な浚渫が行われました。動員された町の人たちは、「どうせやるなら楽しく」と考え、町ごとにそろいの衣装を作って通りを練り歩き、飾りたてた船を出して、浚渫作業に出かけていったといいます。そして、この天保の「大浚え」で出た土砂を、1カ所に高く盛り上げて造られたのが、今もベイエリアにある、天保山です。
天保山は、その後、大阪の観光名所となりました。当時の大阪は、旅の商人や、蔵屋敷に詰める各藩の武士など、定住民でない人がたくさんいる集客都市で、都市型の観光が求められていたわけです。市民や来街者が遊山をなす場所に、土砂の処分地が充てられました。
天保山の平面は五角形をしていました。中国の伝説に、亀の背中に乗って海上を漂う「蓬莱山」という聖なる山が出てくるのですが、天保山をこの蓬莱山に見立て、亀の甲羅の形にしたのです。さらに、水路が掘られ、めでたい名前の橋が架けられ、松や桜が植えられて、四季折々の風情を楽しむことができるように整備されました。
農業生産のための新田開発も、防災と水運のための浚渫事業も、合理的な目的があって行われたわけですが、土木事業をお祭りにしてしまったり、その結果を遊びの空間に変えてしまうのは、いかにも大阪らしい話だと思います。 |
工場の進出と大衆娯楽施設の登場 |
明治から大正にかけて、湾岸の農地は、工場と、そこで働く人向けの住宅に姿を変えていきます。加えて、明治20年ごろから、遊園地や海水浴場などの遊び場所がいくつも造られました。
労働者のためのレジャーが必要となったわけです。特に、家族向きの健全で教育的な娯楽が求められました。そこで、遊園地などが造られていくことになります。
明治後半には、郊外に行楽の場ができていきます。西宮の香炉園は、早くに造られた民間遊園地のひとつです。香炉園が成功したので、その後、遊園地開設ラッシュが起き、香里園、あやめ池、生駒山上などに、次々に遊園地ができました。
堺市の浜寺、大浜、西宮市の甲子園浜、鳴尾浜などには海水浴場が造られました。それまで、日本では海水浴はそれほど普及してはなかったのですが、新聞社と鉄道会社が組んで、海水浴場でイベントを開催するなどしてPRに努めました。同じ時期、活動写真も盛んになり、海にスクリーンを立てて、浜辺から映画を見るというような催しも行われたようです。 |
木津川口、鳴尾浜、大浜などには飛行場ができました。飛行機はまだ、交通手段として使うには頼りなくて、遊覧飛行が金持ちの遊びとなり、それを眺めるのが、庶民の楽しみとなっていました。当時の飛行機には、海上や川筋におりてクレーンで陸に揚げるというものも多く、河口付近に飛行場が造られたのです。
大阪港周辺は、大阪の住民から見ると、市電で行ける一番近い海辺ですから、たくさんの娯楽施設ができました。まず、明治20年代に、天保山遊園地ができます。これは短期間でなくなってしまうのですが、大正になって、民間企業による娯楽施設の開発が盛んになります。
市岡土地株式会社が造った遊園地、市岡パラダイスには、関西初のアイススケートリンクがあったといいます。また、安治川土地という会社も遊園地を造ったほか、極東選手権競技大会(大正12年)の会場となった市立運動場の建設に協力したり、電気博覧会(大正15年)のための土地を提供しています。博覧会のあとには温泉などを造りました。
築港大潮湯という、今で言うクアハウスのような施設もできました。これは、廃材やカンナ屑を生かせる方法はないかと考えた大工が始めた事業で、滝が流れる風呂、活動写真や演芸を見せる余興場、1,000人を収容できる大広間があり、宿泊もできる複合施設だったと言います。 |
土地を使い切る発想を変える |
戦後、高度成長にあわせて、工場や港湾施設が増えていきますが、戦前までの開発と違うのは、「新しい土地は、とにかく使い切るんだ」という考えで進められたことだと思います。
ベイエリアの土地利用の面白さは、時代が変わると、次々に用途が変わることです。戦前までのベイエリアは、農地が必要な時に新田として開発され、工場が必要な時は工場地帯になり、娯楽が必要になると、農地や工場のすき間に、レジャーランドが造られてきました。都市から眺めたベイエリアは、その時代に必要なものを実現するための、リザーブ用地なのです。
都心部ではそうはいきません。オフィス街は、オフィス街であり続けようとするし、住宅地は、住宅地であり続けようとします。秩序や、ルール、住んでいる人の約束事があって、それを守るのが都市生活の基本となっています。
その点、ベイエリアは自由です。居住地としての歴史も比較的浅いことから、伝統などにこだわらずに、実験的なこと、思いきった事業ができます。むしろ、伝統が限られているからこそ、シンボリックなものや新しい物語を、どんどんつくって行かなければならない場所だと言えます。
ベイエリアに限らず、都市の周辺部は、新しいものを産み出す場所となってきました。古い話で言うと、信長の楽市楽座なども、むしろ都市の周縁性を活かす事業です。許認可を受けた都心の商業とは別に、町のはずれにフリーマ ーケットをつくり、活況を呈しました。近代でも同様です。大阪の梅田や難波、天王寺は町のはずれだったから、鉄道という新しいものを受け入れ、従来と違う、ターミナル文化をつくることができたのです。 |
楽観的に構えて今必要なものを |
今、ベイエリア開発が停滞しているように言われますが、その結果、いろいろな暫定利用が起こっている現状は、実は、本来のベイエリアの使い方に戻っていると言えます。
オリンピック招致に失敗したからと言って、悲観的になることはありません。国際的に多くの人が集まる場所にするという基本は変えず、時代が何を求めているかを考えて、実験的な取り組みを重ねてゆくべきでしょう。都市の周縁部の開発は、もっと楽観的に考えて取り組んでいいものだと思います。
たとえば天保の大浚えのように、市民が関わって、楽しく開発をしていく発想もいいですね。当時、公共事業に民間が積極的に関わっていたのは、自治意識が高かったこともあるでしょうが、むしろそれが、当たり前のことだからやっていたのだと思います。大阪では土木事業を行政任せにしてしまった状態の方がおかしいわけで。町は、そこに住む人、そして来街者たちも主体となって、造るべきものなのです。誰もがベイエリアの活用法を考え、欲しい場所を実験的に造って行く。今は、ベイエリアを「都市のフロンティア」という、本来の姿に戻すチャンスだと思いますよ。 |
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