一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構
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広報誌『O-BAY』
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大阪湾開発物語
時代を映すベイエリアの変遷
 
  Interview    橋爪 紳也 さん(大阪市立大学大学院助教授)
橋爪紳也さん◆はしづめ しんや
1960年生まれ。
京都大学工学部建築学科卒、京都大学大学院、
大阪大学大学院修了。工学博士。
京都精華大学助教授を経て、1999年より現職。
専門は都市計画史、建築史。
著書に「倶楽部と日本人」「明治の迷宮都市」「日本の遊園地」「祝祭の〈帝国〉」「人生は博覧会」など。

 大阪は、海を埋め立ててつくられた都市です。今の大阪市域は、かつて、ほとんどが海か湖で、陸地は上町台地の辺りしかありませんでした。商都の水運を担った掘割も、もとは、湿地帯を陸に変えるために掘った水抜きの水路です。「大阪は水の都」とよく言われますが、人々の暮らしが水辺と近かったというだけではありません。大阪は、人々が水と闘ってきた歴史をもつ、「埋め立て都市」なのです。
新田開発の積み重ねでできた土地
大阪湾の埋立の変還 埋め立てで何を造って来たかと言うと、ひとつは市街地の拡大。新地と呼ばれる町がそうです。もうひとつは、生産のための農地、すなわち新田です。江戸時代、海に堤防を造って内側の水を抜き、土を盛って農地にする事業を繰り返して、今の港区、此花区などが陸地となりました。大きな計画があって、大規模に事業を行うのではなく、民間の開発主の手によって、少しずつ先へ先へと進めてきたのです。古い地図をみると、堤防に縁取られた新田が、ブドウの房のように連なっているのがわかります。現在、この地域の道路の方位が地域によって微妙にずれているのは、堤防や、新田の中の水路や、あぜ道の形が残っているからです。
  西へ西へと農地を造って行くと、必然的に、川筋が長く浅くなっていきます。近世以来、川の浚渫は、治水のためにも、海と都心を繋ぐ交通である水運を維持するためにも、非常に重要な作業でした。
天保山は、安治川浚渫の土でできた
「大阪安治川天保山風景」 天保年間に、官民が協力して、大規模な浚渫が行われました。動員された町の人たちは、「どうせやるなら楽しく」と考え、町ごとにそろいの衣装を作って通りを練り歩き、飾りたてた船を出して、浚渫作業に出かけていったといいます。そして、この天保の「大浚え」で出た土砂を、1カ所に高く盛り上げて造られたのが、今もベイエリアにある、天保山です。
  天保山は、その後、大阪の観光名所となりました。当時の大阪は、旅の商人や、蔵屋敷に詰める各藩の武士など、定住民でない人がたくさんいる集客都市で、都市型の観光が求められていたわけです。市民や来街者が遊山をなす場所に、土砂の処分地が充てられました。
  天保山の平面は五角形をしていました。中国の伝説に、亀の背中に乗って海上を漂う「蓬莱山」という聖なる山が出てくるのですが、天保山をこの蓬莱山に見立て、亀の甲羅の形にしたのです。さらに、水路が掘られ、めでたい名前の橋が架けられ、松や桜が植えられて、四季折々の風情を楽しむことができるように整備されました。
  農業生産のための新田開発も、防災と水運のための浚渫事業も、合理的な目的があって行われたわけですが、土木事業をお祭りにしてしまったり、その結果を遊びの空間に変えてしまうのは、いかにも大阪らしい話だと思います。
工場の進出と大衆娯楽施設の登場
 明治から大正にかけて、湾岸の農地は、工場と、そこで働く人向けの住宅に姿を変えていきます。加えて、明治20年ごろから、遊園地や海水浴場などの遊び場所がいくつも造られました。
  労働者のためのレジャーが必要となったわけです。特に、家族向きの健全で教育的な娯楽が求められました。そこで、遊園地などが造られていくことになります。
  明治後半には、郊外に行楽の場ができていきます。西宮の香炉園は、早くに造られた民間遊園地のひとつです。香炉園が成功したので、その後、遊園地開設ラッシュが起き、香里園、あやめ池、生駒山上などに、次々に遊園地ができました。
香炉園浜の音楽堂  堺市の浜寺、大浜、西宮市の甲子園浜、鳴尾浜などには海水浴場が造られました。それまで、日本では海水浴はそれほど普及してはなかったのですが、新聞社と鉄道会社が組んで、海水浴場でイベントを開催するなどしてPRに努めました。同じ時期、活動写真も盛んになり、海にスクリーンを立てて、浜辺から映画を見るというような催しも行われたようです。
  木津川口、鳴尾浜、大浜などには飛行場ができました。飛行機はまだ、交通手段として使うには頼りなくて、遊覧飛行が金持ちの遊びとなり、それを眺めるのが、庶民の楽しみとなっていました。当時の飛行機には、海上や川筋におりてクレーンで陸に揚げるというものも多く、河口付近に飛行場が造られたのです。
  大阪港周辺は、大阪の住民から見ると、市電で行ける一番近い海辺ですから、たくさんの娯楽施設ができました。まず、明治20年代に、天保山遊園地ができます。これは短期間でなくなってしまうのですが、大正になって、民間企業による娯楽施設の開発が盛んになります。
  市岡土地株式会社が造った遊園地、市岡パラダイスには、関西初のアイススケートリンクがあったといいます。また、安治川土地という会社も遊園地を造ったほか、極東選手権競技大会(大正12年)の会場となった市立運動場の建設に協力したり、電気博覧会(大正15年)のための土地を提供しています。博覧会のあとには温泉などを造りました。
  築港大潮湯という、今で言うクアハウスのような施設もできました。これは、廃材やカンナ屑を生かせる方法はないかと考えた大工が始めた事業で、滝が流れる風呂、活動写真や演芸を見せる余興場、1,000人を収容できる大広間があり、宿泊もできる複合施設だったと言います。
土地を使い切る発想を変える
現在の天保山周辺 戦後、高度成長にあわせて、工場や港湾施設が増えていきますが、戦前までの開発と違うのは、「新しい土地は、とにかく使い切るんだ」という考えで進められたことだと思います。
  ベイエリアの土地利用の面白さは、時代が変わると、次々に用途が変わることです。戦前までのベイエリアは、農地が必要な時に新田として開発され、工場が必要な時は工場地帯になり、娯楽が必要になると、農地や工場のすき間に、レジャーランドが造られてきました。都市から眺めたベイエリアは、その時代に必要なものを実現するための、リザーブ用地なのです。
  都心部ではそうはいきません。オフィス街は、オフィス街であり続けようとするし、住宅地は、住宅地であり続けようとします。秩序や、ルール、住んでいる人の約束事があって、それを守るのが都市生活の基本となっています。
  その点、ベイエリアは自由です。居住地としての歴史も比較的浅いことから、伝統などにこだわらずに、実験的なこと、思いきった事業ができます。むしろ、伝統が限られているからこそ、シンボリックなものや新しい物語を、どんどんつくって行かなければならない場所だと言えます。
  ベイエリアに限らず、都市の周辺部は、新しいものを産み出す場所となってきました。古い話で言うと、信長の楽市楽座なども、むしろ都市の周縁性を活かす事業です。許認可を受けた都心の商業とは別に、町のはずれにフリーマ ーケットをつくり、活況を呈しました。近代でも同様です。大阪の梅田や難波、天王寺は町のはずれだったから、鉄道という新しいものを受け入れ、従来と違う、ターミナル文化をつくることができたのです。
楽観的に構えて今必要なものを
 今、ベイエリア開発が停滞しているように言われますが、その結果、いろいろな暫定利用が起こっている現状は、実は、本来のベイエリアの使い方に戻っていると言えます。
  オリンピック招致に失敗したからと言って、悲観的になることはありません。国際的に多くの人が集まる場所にするという基本は変えず、時代が何を求めているかを考えて、実験的な取り組みを重ねてゆくべきでしょう。都市の周縁部の開発は、もっと楽観的に考えて取り組んでいいものだと思います。
  たとえば天保の大浚えのように、市民が関わって、楽しく開発をしていく発想もいいですね。当時、公共事業に民間が積極的に関わっていたのは、自治意識が高かったこともあるでしょうが、むしろそれが、当たり前のことだからやっていたのだと思います。大阪では土木事業を行政任せにしてしまった状態の方がおかしいわけで。町は、そこに住む人、そして来街者たちも主体となって、造るべきものなのです。誰もがベイエリアの活用法を考え、欲しい場所を実験的に造って行く。今は、ベイエリアを「都市のフロンティア」という、本来の姿に戻すチャンスだと思いますよ。



ちょっとウンチク かつて河内は海だった

河内湾と河内潟の時代
「続大阪平野発達史」 JR環状線森ノ宮駅の近くに、東西45m、南北100mの大規模な貝塚遺跡がある。下層(縄文中期から後期)からは海でとれるマガキ、上層(弥生中期まで)からは淡水産のセタシジミが見つかった。海岸から10kmもある森ノ宮に、なぜ貝塚なのか、下層と上層とでなぜ貝の種類が違うのか、その答えは大阪湾の歴史にある。
  縄文時代、海は生駒山麓の近くまで深く入り込んでいた。そこに半島状に突き出していたのが、現在の上町台地。森ノ宮遺跡はその半島の岸にあった(河内湾Ⅱの時代)。
  その後、半島の先に砂州が延び、弥生時代には、陸地側に取り残された海域が淡水化していた。発掘された貝の種類の違いが、海水が淡水に変化したことを示している(河内潟の時代)。

河内湖と難波津の時代
 古墳時代になると、砂州が対岸に届き、潟は湖に変わった(河内湖の時代)。淀川、大和川がこの湖に注ぎ、長雨や豪雨の度に、河内湖周辺の低地に水害をもたらした。「日本書紀」に、5世紀前半、治水のため、砂州を東西に掘抜く難波堀江が開削されたとの記述があり、この堀江は、現在の大川(天満川)だと考えられている。
  洪水を防ぐための堀江は、湖と海を繋ぐ地形を生かした港、難波津を生んだ。この港は、唐の使節が訪れるなど外交、国際交通の拠点となった。
  7世紀後半、わずかの年月ではあるが難波京に首都が置かれた。難波京の宮殿は、現在の大阪市法円坂で大阪城の南隣。現在は、難波宮跡公園となっている。

付け替えられた大和川
 奈良盆地の河川を1本にまとめて河内平野に流れ出る大和川。現在は大阪と堺の市境を東西に流れているが、かつては、石川と合流した後(現柏原市)北に流れ、長瀬川、玉串川など何本かの川に分流してから、河内湾に注いでいた。
  河内湾は、この大和川と淀川が運ぶ土砂の堆積によって、河内潟、河内湖と姿を変えて行った。
  分流後の大和川流域は、長雨の後、必ずと言ってよいほど、氾濫による水害に見舞われたため、17世紀中頃、河内郡今米村(現東大阪市)の農民たちが、大和川の付け替えを訴願。付け替え予定地となる村々の反対運動によって、着工まで半世紀を要したが、1704年に事業が実現、工事はわずか8ヶ月で完了した。
  付け替え後、新大和川流域では、新たな新田開発が進んだ。しかし一方で、川の南側では水害が頻発、また、川が運ぶ土砂によって堺の港は埋没し、出入りしていた船を尼崎や兵庫の港に奪われてしまう。大和川の付け替えが実現しなければ、多くの街が、違った歴史をたどったかもしれない。



そこに生きる人 「明日も渡船で」
 門田 建造さん  大阪市営千歳渡船場 船長

 大阪市には、渡船の航路が8つある。水都大阪で庶民の暮らしを支えていた渡船の多くは、橋の整備等で姿を消したが、現役の航路は、今もなお、生活の足としての役目を果たしている。37年間、渡船の運航に携わってきた大阪市営千歳渡船場船長の門田さんに、お話をうかがった。
親子2代の船長稼業
 私は、田島という、広島県福山市の沖に浮かぶ島で生まれました。船舶免許を取ったのは17歳の時。親戚みんなが漁師と言う環境で育ったので、それが当たり前という感覚だったのです。
  その後、一家で大阪に来て、父と兄が渡船の仕事につきました。私も、昭和35年の暮れに大阪市に採用され、39年から渡船の仕事につくことができました。
  兄は途中で仕事が変わりましたが、父は最後まで船乗りでした。私も来年3月で定年、父と同じく、船乗りとして仕事を終えることになります。
  37年間の思い出は数々あります。常連のお客さんと友だち付き合いが生まれたり、酔ったお客さんの対応に、苦労したこともありました。
  一番、印象深いことというと、2月の川に飛び込んだことでしょうか。昭和40年代初めのことですが、朝一番に出勤してきたら、船に乗り込む足場となる「台船」が沈んでいたのです。「えらいことだ。お客さんに迷惑がかかる!」と思ったとたん、服を脱いでパンツ一枚で真冬の川に飛びこんでいました。台船を引き上げ、たまっていた水を、近くの作業場から借りてきたポンプで汲み上げ、なんとか運航に間に合いました。後で考えると、恐ろしいことをしたなと思いますよ。

現在も8カ所残る渡し船

 昭和10年ころ、大阪市には31カ所の渡船場があり、年間約6,000万人が利用していたそうです。今、航路は8つ、利用者は約200万人。ちょっと寂しいですね。
  渡船が残っているのは、川を大きな船が通るため、橋を架けられない場所です。橋があるところでも、千本松では、あまりに高いところに橋がつくられ、人が利用することができないので、今も渡船が残っています。
  航路は、長いところで400m程度、短いところは、75mしかありません。私が勤める千歳渡船場と、大正区鶴町の北恩加島の距離は371m。乗船から下船まで含めて6分前後でついてしまいます。
  わずかな距離と時間ですが、鶴町には市営住宅があり、通勤、通学、買い物、病院通いなどの足として、1日に700~800人が利用しています。自転車で乗れるのも魅力で、実際、90%の人が自転車ですよ。
感謝の言葉がやりがいに
 安全にみなさんを対岸まで運ぶこと、これが私の仕事です。私はこの仕事に生きがいを感じていますし、誇りもあります。それを支えてくれたのは、今も昔も変わらない、「おはよう」「こんにちは」「ありがとう」の言葉です。この言葉で、「さあ今日もしっかり船を出そう、明日も頑張ろう」という気になります。
  今、千歳渡船場のそばで橋を整備していますが、地元からは「橋が出来た後も渡船を残して欲しい」という要望が出ています。みなさん、渡船に愛着を持って下さっているのだと感激を覚えました。
  40年、ずっとベイエリアで働き、景観や利用のされ方が変わっていくのを見つめてきました。これからは、公園や遊歩道など、人が親しめる水辺が、もっと増えて欲しいですね。そして、退職後、そんな水辺を、孫と散歩して、時々、渡船に乗るのもいいな、と思っているところです。
地元住民の日常の足として利用されている渡船(千歳渡舟場)


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