臨海部での居住空間としてのこれまでの動き |
高度経済成長期、臨海部では重厚長大産業の拠点という形で工場や港湾施設の建設が進みましたが、近年の産業構造の変化に伴って大規模な土地利用転換がおこり、「住居系の土地利用」が注目されるようになりました。
そうした中で現在、大阪湾臨海部でのマンション建設が活発化していますが、実は「海辺に住みたい」という潜在的なニーズは以前からあったのです。実際、堺方面や阪神間の臨海部は、明治末期から昭和初期にかけて、海浜別荘地・高級住宅街として注目されていました。「健康な暮らしができる」「きらきらと明るい陽光と潮風を浴びて」などのキャッチフレーズで人々を集め、昭和40年頃までは海水浴場や企業の保養所が軒を連ねていました。海辺に住むことの魅力自体は、いつの時代もある種の憧れとして人々の心の中にあったわけです。
高度経済成長期には、土地価格の高騰や、都心部の環境問題などから、「郊外」へと居住地を求める動きが強まり、関西でも関東でも郊外住宅地開発がすさまじい勢いで進みました。海辺のリゾートが普通の住宅地になるなど臨海部の住宅地も増えましたが、工業用地としての利用が優先されたために、大部分の郊外開発は、内陸へ内陸へと進むことになりました。
こうして「緑に包まれた戸建て住宅」が一般的な郊外居住のイメージになりましたが、「海辺に住みたい」というニーズがなくなったわけではありません。潜在的なニーズに加え、「脱重厚長大産業への転換」とそれに伴う土地利用転換、また土地価格の下落により、交通の便利な臨海部での住宅開発を現実的なものにしていると言えます。
ところで土地価格の下落は、一方で「都心居住」ブームを引き起こしています。職住近接で「アフターファイブに気軽に外食ができる。映画館が近い。コンサートに行ける」というように、都心居住と言えば、何らかの都市的なアメニティを身近に享受できることばかりが強調されていますが、それ以上に具体的なイメージはあまり語られません。海辺に暮らすことのイメージも、リゾート的なことばかりが言われ、実はあまり具体的なイメージがないのではないでしょうか。
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兵庫県南芦屋浜 |
第3の居住としての「臨海居住」 |
都心に住むことを「都心居住」、郊外に住むことを「郊外居住」とした場合、近頃の臨海部での居住は、これら二つとは異なるものだと思います。都心居住でも、郊外居住でもなく、もう一つのライフスタイルとして、「海浜居住」や「臨海居住」と位置づけられます。
何が違うのかと言いますと、大都市の臨海部は主要ターミナルや都心からの「距離」が比較的近いことに加え、その一方では海に面しているという点です。海辺に住んでいるということは、言わば広大な空間が目の前にあるということです。その空間は、眺望にも繋がるだろうし、気候や雨、風といった自然の要素を常に身近に感じるということにも繋がります。
海を通じて外国などのはるか遠方にも繋がっていますし、ある種のロマンを感じることができます。また、海辺の生き物の存在なども生活の中で感じることができるでしょう。
自然環境の点で比較すれば、「郊外居住」と類似するようですが、実体は大きく異なります。確かに「郊外居住」というのは自然に限りなく近い暮らしであると言えますが、実際には郊外のニュータウンの多くが周辺に開発地を広げていった結果、本当にそんな自然が身近にあるのかというと、現実的にはないところの方が多いわけです。
それに対して、海や水辺というのはそう簡単には開発できませんから、ある一定空間は人間には手に負えない自然環境が否応なく存在します。この点で緑の中の郊外居住とは異なります。
都心部へのアクセスも良く、また象徴的に言えば、郊外電車のかわりにマンションのエレベーター一本で目の前の広大な海(自然)が臨める。これはまちとしての大きな魅力です。
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「固有のまち」として考えること。 |
「臨海居住」の課題の一つとして、都心部から臨海部の居住地に辿り着くまでの間に、帯状に形成される工業地帯を抜けなければいけない点が挙げられます。言い方は悪いですが、あまり目にしたくない景色も見なければならない。このことが実際に、海辺に住んでいることのイメージも悪くしています。この重厚長大産業時代の旧臨海部のイメージは今後変えていく必要があります。
そのために様々な解決策があるとは思いますが、例えば流通拠点であった港の資産を活用することです。港の倉庫などの大空間を効果的に転用すれば、商業施設として十分に成立するでしょうし、またその一部を利用してアートや文化創造の空間などを生み出すことも可能でしょう。
水辺というのは歴史的にみても、様々な文化が出入りし、かつ新たに発祥する場所であったと言えます。これは当時、水辺がある種の治外法権的な空間だったからであり、そこで自由な発想のもとに様々な芸能が生まれ、発展していったという歴史的事実があります。例えば現代の臨海部においても、「ここはちょっと普通の場所より、自由にいろいろなことができますよ」というイメージを現代風に作ることも一つの方法だと思います。そうした水辺のエリアとしては、大阪城から大阪市内中心部の中之島地域をとおり尻無川、安治川を一本のラインとして繋ぎ、陸側は天満橋、海側は天保山・コスモスクウェアを拠点として「水都大阪」の大きな軸とする。環状の工業地帯を一本貫く、水辺のライン・歴史のライン・文化のラインができます。
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臨海部に限らず、居住空間としての価値を維持していくためにはこうした「文化機能」や、また緑地なり水辺の親水空間を作っていくことが必要不可欠です。これらを軽視すれば、すぐに魅力のないまちになりかねません。
例えば、神戸のポートアイランドには大学の進出が決定しています。若い学生が増えることで、港としての機能が変わりつつあります。新しく人が暮らすようになると、学校や、病院、様々な施設が必要になります。そうして地域やまちというのはダイナミックに変化していきます。
また、まちにはそれぞれ「固有の顔」があります。歴史的な経緯や背景に基づいた、まちとしての特性や個性といったものです。臨海部で例えれば、天保山から安治川沿いに延びるみなと通りは大阪の近代化がまさに最初に始まった軸です。現在でもそうした歴史的な価値やイメージがしっかりとあるわけですし、その特性をもっと活かしていかないといけない。また内陸部の話になりますが、例えば大阪城の近くの「上町台地周辺」では、歴史的資源を観光ツールとして活用したり、「空堀」などでは古い長屋や町屋を維持しようと若いアーティストが活動の場として利用し、まちとしての特性を活かしつつあります。
端的に言えば、まちが固有名詞で語られていかないといけません。「臨海居住」と言っても、少なくとも「旧臨海」と「新臨海」とは区別しないといけないし、また個々の場所においても、歴史的にどういう役割や特性をもっているかはきちんと説明できなくてはなりません。
それらを説明することで、居住者はもちろん開発者までが、自分達のまちの「特性」を考えていくことにつながります。
まちづくりの観点で見れば、今後は基本的な全体計画をすすめる一方、個々の場所においてはこうした「まちのアイデンティティー」をあらためて確認するという作業が必要です。
50年先、100年先の長期計画も必要ですが、極めて現実的な問題として10年先、20年先のまちづくりビジョンを真剣に考えないといけない。実際にそこに人が暮らして、働いて、そして遊んでもらわないと、まちとは言えません。そのためにこそ「まちのアイデンティティー」が必要です。「ここに住んでいる人は、何を自慢することができるのか?」ということを本気で考えることです。
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「臨海居住」への提言 |
そのためには、大阪湾旧臨海地区の土地利用転換のマスタープラン(全体計画)を考える必要があります。これが一番難しいのでしょうが・・・。
もちろん住民自身の意識改革も大切ですが、新たに開発される埋立地などではまだ誰も住んでいないわけですから、まずは自治体・行政や開発者側が「まちのアイデンティティー」を考えないといけませんし、そのことを住民にもアピールしなければいけません。
それは結果としてまち同士の「競争」にもつながり、互いのまちが切磋琢磨し合える関係へと発展すると思います。
いずれにしても、ベイエリアでそれぞれが競い合えるような、情報発信、情報交換の場を作ることが必要だと思います。
それから今後の「臨海居住」の成熟にも繋がることとして、ベイエリアそのもののブランド化にも力を注いでいただきたいと思います。ベイエリアにはたくさんの魅力があり、それは他の都心部や他の郊外とは違うぞ!と。独自のアイデンティティーがあるんだということを、どんどん伝えていただきたいと思います。
尼崎臨海部で進められている「21世紀の森構想」みたいに、開き直って「ここには緑を造るんだ」といった大胆な発想の転換も必要だと思います。高度な政治判断というか腹をくくった提案というか、仕掛けを用意することも大切ではないでしょうか。行政、府県を越えて一体とした取り組みのコーディネートをおこなっていけば、魅力ある地域にきっとできるはずです。一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構が中心となって、その役割を果たすことができるのではないかと思います。期待しています。
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(2006年夏号) |
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