大阪の祭りといえば天神祭。都心の川にたくさんの船が浮かび、火と水の祭礼を繰り広げる。天神祭は、そもそもは海と深いかかわりを持っていた。
江戸時代から全国的にその名を知られ、多くの観光客を集めた。現在も、約100万人が訪れる。伝統的な祭りがもつ魅力は大きい。
一方、近年、地域活性化を目指し、さまざまなイベントが生み出されているが、長く愛される催しに育てるには努力と工夫がいる。今回、夙川学院短期大学教授で大阪天満宮文化研究所の研究員でもある高島幸次さんに、天神祭の歴史、都市と祭りの関係、祭りによる地域活性化のコツなどをうかがった。まちおこし、地域イベントに携わる人には必読のお話だ。 |
|
海から力をもらった古代天皇 |
大阪湾岸で行われた最も古いお祭りとして、今、文献で押さえることができるのは、八十島祭(やそしまのまつり)です。天皇が即位した翌年、宮中の神殿に仕える女官が難波の海に来て、天皇の御衣を海に向かって振るという儀式で、八十島というのは日本の国土を示す古い名前です。
文献では西暦850年から1224年まで行われたことがわかっていますが、私は、もっと古くから行われていたと思います。都が京に移るより前、難波に都があったころ、天皇御自身が海辺に立たれ、着物をひらひらさせたのかもしれません。
儀式が行われた具体的な場所はわかっていないのですが、祭られた神様は生島神(いくしまのかみ)と足島神(たるしまのかみ)で、そこから、場所を推理することができます。今、このふたりの神様を生国魂(いくたま)神社(大阪市天王寺区)が祭っています。生国魂神社は、現在の大阪城のあたりにありましたが、大阪城をつくるときに移設されたのです。河内がまだ海で上町台地が海に突き出す半島だったころ、その先端に、生国魂神社はあったわけです。八十島祭を行っていた場所を考えるヒントになりますね。まるで映画「タイタニック」で船の先端で両手を広げるシーンみたいで、絵になると思いませんか。
これから日本を治めようとする天皇が、海から命の力をもらう、その場所が大阪湾だった。大阪湾の価値を考えるとき、押さえておくべきことだと私は思います。 |
|
大阪天満宮は疫病退散から |
ここで、天満宮の歴史についてお話しましょう。
大化の改新のあと、西暦651年に孝徳天皇が、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に都を移しました。当時、都に悪いものが入ってこないよう、四方の隅で道饗祭(みちあえのまつり)が行われていました。侵入を防ぎたい筆頭は疫病です。都という密集地では、はやり病は非常に怖いので、年に2回、6月と12月の晦日(みそか)に、四方の道端で道饗祭を行ったのです。のちに、四隅のうち西北の場所に、大将軍社という小さな祠がつくられました。大将軍とは金星の神様です。金星は西をホームポジションにして12年かけて天を一巡すると考えられており、悪い病気も12年周期で、はやると思われていたため、大将軍(金星)と疫病の神様が結びついたのです。
ずっと時代が下って901年。菅原道真が政敵の策謀によって大宰府に流される時、道明寺(現藤井寺市)に住む伯母さんに別れを告げに行くエピソードはよく知られています。そして、道明寺から大宰府に行くのに大将軍社まで戻り、そこから船に乗ったという伝説があります。その時、船を出せる風を待っている間に、道真が大将軍社にお参りしたと伝えられています。大将軍社は疫病を防ぐ神様であると同時に、西の方角をつかさどる神様です。大宰府、つまり、西の果てに流される道真が、航路の安全を祈ったのだろうと私は思っています。
2年後の903年に道真は亡くなり、色々な天変地異が起こって、10世紀の中ごろには天神信仰が成立します。大阪天満宮は949年に創祀されました。場所は、大将軍社のあったところ。道真がお参りした伝説があったからです。現在も、大阪天満宮の境内に、大将軍社が鎮座しています。そして大将軍社では、現在も6月と12月の晦日に道饗祭をやっています。境内のたくさんの末社は、みな南を向いています。大将軍社も南向きですが、社の前の石畳は西北を向いています。これは都を守っていたときの方角の名残と考えられます。 |
|
天神祭船渡御のルーツは |
さて、949年に天満宮ができて、2年後の951年に「鉾流神事(ほこながししんじ)」が始まりました。毎年、大川に木製の鉾を流すと、それは海に流れ出る前に、川岸のどこかに漂着します。漂着場所が、今年、神様がおいでになりたい場所ということで、仮設の御旅所をつくり、お宮から神様を戴いた行列が、船に乗り御旅所に行くという神事です。はじめは神職だけの行列でしたが、やがて氏子たちもお供の行列を組むようになりました。これが天神祭のルーツです。
今、天神祭は7月25日に行われますが、1449年の文献を見ると7月7日とあります。天神祭は七夕祭でもあったわけです。笹に短冊をくっつける七夕じゃないですよ。あれは、中国から伝わった別の行事で、日本古来の七夕は「棚機つ女(たなばたつめ)信仰」がもとになっています。水辺の機屋に神様をお迎えして、翌日、神様が帰るときに、村の罪や穢れを持ち去ってもらうという信仰です。神様がお帰りになることを象徴して、何かを川に流すことは今も各地で行われています。天神祭の鉾流神事も、御旅所の場所を占うだけでなく、罪、穢れを流す意味があり、それはまた、疫病退散の願いと通じるものです。 |
|
天神祭ならではの御迎船 |
天神祭は戦国時代に中断され、次に文献に出てくるのは1587年です。祭は6月25日、道真の誕生日に行われていました。道真信仰の色が強くなったので、祭りが復活したときに日を変えたのでしょう。
さらに江戸時代になると、下流の岸に人家が増えてきました。鉾が人の家に着いたら困りますから、鉾流神事は中止され※、常設の御旅所がつくられました。やがて、御旅所周辺で氏子意識が生まれ、船を仕立ててお迎えにあがるようになります。これが御迎船(おむかえぶね)ですね。天満宮から神様のお供の渡御船団が下り、御旅所からお迎えの船団が上がって、出会ったら、御迎船がUターンして先導する形です。
江戸時代、二つの船団が行き来する天神祭は全国的に有名になり、遠方からもたくさんの見物客が訪れました。船渡御が進む中之島には蔵屋敷が並び、地方から赴任してきた役人が働いていました。彼らが地元に帰って大阪で見た天神祭のすばらしさを、口コミで広げてくれたのです。
※ 昭和5年に復活。現在も7月24日の朝に行われている。 |
|
明治から昭和で今の天神祭に |
天神祭は、幕末の政情不安でしばらく中止され、明治になって復活しました。ところが、明治5年から太陽暦が採用されたので、暦と季節感があわない。試行錯誤を経て明治11年、1カ月遅れの7月25日で落ち着き、現在に至ります。
戦争で中断し、戦後復活したとき新たな問題が発生しました。地下水の汲み上げなどが原因の地盤沈下で、船が橋をくぐれなくなったのです。それでは、船をやめて歩いて御旅所に向かうかというと、大阪の人は非常にフレキシブルですから、下流がだめなら上流に行こうということになりました。御旅所は下流にあります。上流に向かったら、御迎船が迎えに来なくなりますから、その代りになる船団を上流に待たせておいて下航させるようにしました。御旅所で行っていた神事も船上で行うようにしました。これが現在の天神祭です。下流の御旅所も大切にお守りされています。だから、随分大胆に変えているんですが、守るところは守るという、不思議なお祭りですね。 |
|
航海安全の神様「渡唐天神」 |
大将軍社の地にできた天神さんは、西に流された道真を祭る、西を意識した神様です。「東風吹かば匂いおこせよ梅の花」といって、道真の庭の梅が大宰府まで飛んだという話があるでしょう。それだけではなく、室町時代に「渡唐天神」という西の神様が、装い新たに登場します。
鎌倉中期に、博多の禅寺、崇福寺の円爾弁円(えんにべんねん)というお坊さんの元に道真が現れ、「禅宗のことを教えてくれ」と言ったそうです。道真が亡くなって300年以上のちの話ですが。お坊さんが、「勉強したいなら、中国の杭州径山の万寿寺の無準師範(しばん)のところに行きなさい」と言ったら、わかったといって飛んで行ったという伝説です。地図で見ると、京都と大宰府の延長線上に径山があるんです。西へ西へと飛んでいるんです。
やがて、渡唐天神の小さい絵が、航海する人のお守りになります。当時、航海というと行き先は中国ですから、西に向かった天神さんが守り神になったのです。
天神さんというと、学問の神様ですが、それが一般化するのは江戸時代、寺子屋が普及してからのことでしょう。大阪天満宮は西に開かれた場所にあり、天神祭は海に向かって罪や穢れを流すお祭りで、海を渡る人の守り神でもあるわけです。本来、天神さんは、海と強いかかわりを持つ神様なんです。 |
|
天神祭と水都の発展のためには |
さて、天満宮と天神祭の歴史をお話してきましたが、これを、ベイエリア全域の話につなげていきましょう。
まず、大阪の大きな観光資源である天神祭の将来を考えると、船が下流に行けないのは痛いですね。現在上り50艘、下り50艘の合計100艘。もっとたくさん出したいけれど、毛馬閘門より上流には行けないという制約があります。
もし、地盤沈下がなくて船が下流に行けたら、フレキシブルな天神祭のことだから、船が増えるにしたがって、御旅所を河口にまで移して、海まで出ただろうと思います。今は花火も人家のある場所で遠慮していますが、海ならもっと自由にできます。船渡御を見るために、西宮ヨットハーバーから見物の船がたくさん出たり、サンタマリアが見物客を募ったり、楽しい展開が考えられます。
天神祭のために、橋をかさ上げしなさいと言う気はないですが、水都として川を生かしたいなら、水上バスのような平たい船しかくぐれない状況は問題だと思いますね。
|
|
「本来伝統」と「擬似伝統」 |
地域おこしのためにイベントを企画するとき、大切なことが忘れられているように思います。日本人は、年中行事的なものには伝統を求めるんです。新しいイベントに伝統を求めるのはおかしいと思われるかもしれませんが、伝統には、「本来伝統」と「擬似伝統」の2種類があります。本当に何百年も前から続いているのが本来伝統。擬似伝統とは、本来伝統ではないが、人々が伝統を感じるもの、その2種類の使い分けが鍵です。
たとえば、神前結婚式。これを初めてやった日本人は大正天皇です。それ以前に神様の前での結婚なんてなかったのです。でも、古くからの伝統のように感じますよね。神前結婚という形式自体は新しいものなのに、古くからあった神社で、古くからあったように見えますね。
天神祭は、その姿を変え続けてきました。けれど、見に来た人は、今年、見たことを1000年以上前からやっていると思ってしまう。こういうのが擬似伝統なんです。
天神祭では、コアになる本来伝統の神事は、神職が本殿でちゃんと受け継いでいます。そのまわりで、氏子たちによって船渡御や花火などの神賑(しんしん)行事が行われ、戦後はさらに駅のポスターや見物ツアーなどによって観光行事が加わりました。観光客は、この全部を伝統的だと感じるのです。
御堂筋パレードや神戸まつりに、そういう演出を加えてみたらどうでしょう。神戸まつりも、たとえば生田神社で起こした火をもらって行列に参加すれば、見に来た人は何か古くからのいわれがあるんだろうと安心を感じるでしょう。擬似伝統は、年数を重ねたら本来伝統になるんですよ。伝統というと、本物でないとダメだと考えがちですが、この本来伝統と擬似伝統の関係をうまく使う知恵が欲しいですね。 |
|
ベイエリアで伝統の祭を新しく |
四天王寺ワッソは、とても新しいお祭りなのに、擬似伝統をうまく取り入れていると思います。今、資金難で苦しんでいるようですが、続けることができれば、御堂筋パレードを超えると思いますよ。御堂筋を使う権利をワッソに譲ってもらえないかと思うくらいです。今の、ワッソだけでは寂しいでしょうが、朝鮮半島との交流を描いているこの祭りは、豊かに膨らますことができます。
古代は朝鮮半島とこんな交流をしました、近代は南蛮とこんな交易がありましたなど、大阪の国際交流都市としての歴史を見せるお祭りにするのです。天神さんにも登場してもらいましょう。なんといっても、渡唐天神ですからね。海外からきた観光客も、国際都市大阪の歴史が目で見て理解できますよね。
ほかに、私が、ベイエリアで注目しているのは、西宮神社です。400年ほど途絶えていた船渡御を、2000年に復活したんです。天神祭の100艘に比べると、まだ寂しいですが、海でやっていますから、橋の高さの心配もないし、将来、船の数が増えても困りません。最初は港の中をくるっと回るだけでしたが、2002年からは神戸の和田岬まで行くようになりました。西宮神社は、昔、和田岬で引き上げられた神様の像を祭ったという伝説があるのです。擬似伝統を感じるでしょう? 数年もすれば、みんな、400年の中断があったことなど忘れて、1000年前から続いていると思いますよ。実は、うちの大学も船を出しているんです。ヨットハーバーの協力で船を借りて、美術科の学生が船を飾る布を染めてね。産学連携じゃなく神学連携ですね。西宮には短期大学・大学が10もありますから、大学で祭りを盛りたてるようになればいいですね。
中心に神事をおいた祭りを考えるのに、海はとてもいいテーマですよ。八十島祭を見てわかるように、海から国を治める力をもらおうとした。昔の人たちは、地球上の命が海で生まれたことは知らないのに、不思議ですね。潮の香りに命の源泉を感じるのは、島国に住む人の「血」ではないでしょうか。
ベイエリアを祭りで盛り上げる方法はたくさんあると思います。やってみたいアイデアもいろいろあります。祭りを通して、海にもっと親しめるようにしていきたいですね。 |
|
|