一般財団法人大阪湾ベイエリア開発推進機構
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広報誌『O-BAY』
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博物館は楽しいゾ
海辺の祭りでベイに賑いを
 
  Interview   高島 幸次さん
〈夙川学院短期大学教授〉
高島幸次さん◆たかしま こうじ
1949年生まれ。龍谷大学大学院文学研究科(国史学専攻)修士課程修了。夙川学院短期大学教授。大阪天満宮文化研究所研究員を兼務。専門は日本近世史。編著に「天満宮御神事御迎船人形図会」など。天神祭には、TV出演やパンフレット執筆などにより、様々な情報を発信している。

 大阪の祭りといえば天神祭。都心の川にたくさんの船が浮かび、火と水の祭礼を繰り広げる。天神祭は、そもそもは海と深いかかわりを持っていた。
  江戸時代から全国的にその名を知られ、多くの観光客を集めた。現在も、約100万人が訪れる。伝統的な祭りがもつ魅力は大きい。
  一方、近年、地域活性化を目指し、さまざまなイベントが生み出されているが、長く愛される催しに育てるには努力と工夫がいる。今回、夙川学院短期大学教授で大阪天満宮文化研究所の研究員でもある高島幸次さんに、天神祭の歴史、都市と祭りの関係、祭りによる地域活性化のコツなどをうかがった。まちおこし、地域イベントに携わる人には必読のお話だ。
 
海から力をもらった古代天皇
 大阪湾岸で行われた最も古いお祭りとして、今、文献で押さえることができるのは、八十島祭(やそしまのまつり)です。天皇が即位した翌年、宮中の神殿に仕える女官が難波の海に来て、天皇の御衣を海に向かって振るという儀式で、八十島というのは日本の国土を示す古い名前です。
  文献では西暦850年から1224年まで行われたことがわかっていますが、私は、もっと古くから行われていたと思います。都が京に移るより前、難波に都があったころ、天皇御自身が海辺に立たれ、着物をひらひらさせたのかもしれません。
  儀式が行われた具体的な場所はわかっていないのですが、祭られた神様は生島神(いくしまのかみ)と足島神(たるしまのかみ)で、そこから、場所を推理することができます。今、このふたりの神様を生国魂(いくたま)神社(大阪市天王寺区)が祭っています。生国魂神社は、現在の大阪城のあたりにありましたが、大阪城をつくるときに移設されたのです。河内がまだ海で上町台地が海に突き出す半島だったころ、その先端に、生国魂神社はあったわけです。八十島祭を行っていた場所を考えるヒントになりますね。まるで映画「タイタニック」で船の先端で両手を広げるシーンみたいで、絵になると思いませんか。
  これから日本を治めようとする天皇が、海から命の力をもらう、その場所が大阪湾だった。大阪湾の価値を考えるとき、押さえておくべきことだと私は思います。
 
大阪天満宮は疫病退散から
 ここで、天満宮の歴史についてお話しましょう。
  大化の改新のあと、西暦651年に孝徳天皇が、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に都を移しました。当時、都に悪いものが入ってこないよう、四方の隅で道饗祭(みちあえのまつり)が行われていました。侵入を防ぎたい筆頭は疫病です。都という密集地では、はやり病は非常に怖いので、年に2回、6月と12月の晦日(みそか)に、四方の道端で道饗祭を行ったのです。のちに、四隅のうち西北の場所に、大将軍社という小さな祠がつくられました。大将軍とは金星の神様です。金星は西をホームポジションにして12年かけて天を一巡すると考えられており、悪い病気も12年周期で、はやると思われていたため、大将軍(金星)と疫病の神様が結びついたのです。

浪華之古図

  ずっと時代が下って901年。菅原道真が政敵の策謀によって大宰府に流される時、道明寺(現藤井寺市)に住む伯母さんに別れを告げに行くエピソードはよく知られています。そして、道明寺から大宰府に行くのに大将軍社まで戻り、そこから船に乗ったという伝説があります。その時、船を出せる風を待っている間に、道真が大将軍社にお参りしたと伝えられています。大将軍社は疫病を防ぐ神様であると同時に、西の方角をつかさどる神様です。大宰府、つまり、西の果てに流される道真が、航路の安全を祈ったのだろうと私は思っています。
  2年後の903年に道真は亡くなり、色々な天変地異が起こって、10世紀の中ごろには天神信仰が成立します。大阪天満宮は949年に創祀されました。場所は、大将軍社のあったところ。道真がお参りした伝説があったからです。現在も、大阪天満宮の境内に、大将軍社が鎮座しています。そして大将軍社では、現在も6月と12月の晦日に道饗祭をやっています。境内のたくさんの末社は、みな南を向いています。大将軍社も南向きですが、社の前の石畳は西北を向いています。これは都を守っていたときの方角の名残と考えられます。
 
天神祭船渡御のルーツは
 さて、949年に天満宮ができて、2年後の951年に「鉾流神事(ほこながししんじ)」が始まりました。毎年、大川に木製の鉾を流すと、それは海に流れ出る前に、川岸のどこかに漂着します。漂着場所が、今年、神様がおいでになりたい場所ということで、仮設の御旅所をつくり、お宮から神様を戴いた行列が、船に乗り御旅所に行くという神事です。はじめは神職だけの行列でしたが、やがて氏子たちもお供の行列を組むようになりました。これが天神祭のルーツです。
  今、天神祭は7月25日に行われますが、1449年の文献を見ると7月7日とあります。天神祭は七夕祭でもあったわけです。笹に短冊をくっつける七夕じゃないですよ。あれは、中国から伝わった別の行事で、日本古来の七夕は「棚機つ女(たなばたつめ)信仰」がもとになっています。水辺の機屋に神様をお迎えして、翌日、神様が帰るときに、村の罪や穢れを持ち去ってもらうという信仰です。神様がお帰りになることを象徴して、何かを川に流すことは今も各地で行われています。天神祭の鉾流神事も、御旅所の場所を占うだけでなく、罪、穢れを流す意味があり、それはまた、疫病退散の願いと通じるものです。
 
天神祭ならではの御迎船
 天神祭は戦国時代に中断され、次に文献に出てくるのは1587年です。祭は6月25日、道真の誕生日に行われていました。道真信仰の色が強くなったので、祭りが復活したときに日を変えたのでしょう。
  さらに江戸時代になると、下流の岸に人家が増えてきました。鉾が人の家に着いたら困りますから、鉾流神事は中止され※、常設の御旅所がつくられました。やがて、御旅所周辺で氏子意識が生まれ、船を仕立ててお迎えにあがるようになります。これが御迎船(おむかえぶね)ですね。天満宮から神様のお供の渡御船団が下り、御旅所からお迎えの船団が上がって、出会ったら、御迎船がUターンして先導する形です。
  江戸時代、二つの船団が行き来する天神祭は全国的に有名になり、遠方からもたくさんの見物客が訪れました。船渡御が進む中之島には蔵屋敷が並び、地方から赴任してきた役人が働いていました。彼らが地元に帰って大阪で見た天神祭のすばらしさを、口コミで広げてくれたのです。
※ 昭和5年に復活。現在も7月24日の朝に行われている。
 
明治から昭和で今の天神祭に
 天神祭は、幕末の政情不安でしばらく中止され、明治になって復活しました。ところが、明治5年から太陽暦が採用されたので、暦と季節感があわない。試行錯誤を経て明治11年、1カ月遅れの7月25日で落ち着き、現在に至ります。
  戦争で中断し、戦後復活したとき新たな問題が発生しました。地下水の汲み上げなどが原因の地盤沈下で、船が橋をくぐれなくなったのです。それでは、船をやめて歩いて御旅所に向かうかというと、大阪の人は非常にフレキシブルですから、下流がだめなら上流に行こうということになりました。御旅所は下流にあります。上流に向かったら、御迎船が迎えに来なくなりますから、その代りになる船団を上流に待たせておいて下航させるようにしました。御旅所で行っていた神事も船上で行うようにしました。これが現在の天神祭です。下流の御旅所も大切にお守りされています。だから、随分大胆に変えているんですが、守るところは守るという、不思議なお祭りですね。
 
航海安全の神様「渡唐天神」
 大将軍社の地にできた天神さんは、西に流された道真を祭る、西を意識した神様です。「東風吹かば匂いおこせよ梅の花」といって、道真の庭の梅が大宰府まで飛んだという話があるでしょう。それだけではなく、室町時代に「渡唐天神」という西の神様が、装い新たに登場します。
鎌倉中期に、博多の禅寺、崇福寺の円爾弁円(えんにべんねん)というお坊さんの元に道真が現れ、「禅宗のことを教えてくれ」と言ったそうです。道真が亡くなって300年以上のちの話ですが。お坊さんが、「勉強したいなら、中国の杭州径山の万寿寺の無準師範(しばん)のところに行きなさい」と言ったら、わかったといって飛んで行ったという伝説です。地図で見ると、京都と大宰府の延長線上に径山があるんです。西へ西へと飛んでいるんです。
  やがて、渡唐天神の小さい絵が、航海する人のお守りになります。当時、航海というと行き先は中国ですから、西に向かった天神さんが守り神になったのです。
  天神さんというと、学問の神様ですが、それが一般化するのは江戸時代、寺子屋が普及してからのことでしょう。大阪天満宮は西に開かれた場所にあり、天神祭は海に向かって罪や穢れを流すお祭りで、海を渡る人の守り神でもあるわけです。本来、天神さんは、海と強いかかわりを持つ神様なんです。
 
天神祭と水都の発展のためには
 さて、天満宮と天神祭の歴史をお話してきましたが、これを、ベイエリア全域の話につなげていきましょう。
  まず、大阪の大きな観光資源である天神祭の将来を考えると、船が下流に行けないのは痛いですね。現在上り50艘、下り50艘の合計100艘。もっとたくさん出したいけれど、毛馬閘門より上流には行けないという制約があります。
  もし、地盤沈下がなくて船が下流に行けたら、フレキシブルな天神祭のことだから、船が増えるにしたがって、御旅所を河口にまで移して、海まで出ただろうと思います。今は花火も人家のある場所で遠慮していますが、海ならもっと自由にできます。船渡御を見るために、西宮ヨットハーバーから見物の船がたくさん出たり、サンタマリアが見物客を募ったり、楽しい展開が考えられます。
  天神祭のために、橋をかさ上げしなさいと言う気はないですが、水都として川を生かしたいなら、水上バスのような平たい船しかくぐれない状況は問題だと思いますね。
摂州大坂天満宮御神事之図と天神祭・船渡御
 
「本来伝統」と「擬似伝統」
 地域おこしのためにイベントを企画するとき、大切なことが忘れられているように思います。日本人は、年中行事的なものには伝統を求めるんです。新しいイベントに伝統を求めるのはおかしいと思われるかもしれませんが、伝統には、「本来伝統」と「擬似伝統」の2種類があります。本当に何百年も前から続いているのが本来伝統。擬似伝統とは、本来伝統ではないが、人々が伝統を感じるもの、その2種類の使い分けが鍵です。
  たとえば、神前結婚式。これを初めてやった日本人は大正天皇です。それ以前に神様の前での結婚なんてなかったのです。でも、古くからの伝統のように感じますよね。神前結婚という形式自体は新しいものなのに、古くからあった神社で、古くからあったように見えますね。
  天神祭は、その姿を変え続けてきました。けれど、見に来た人は、今年、見たことを1000年以上前からやっていると思ってしまう。こういうのが擬似伝統なんです。
  天神祭では、コアになる本来伝統の神事は、神職が本殿でちゃんと受け継いでいます。そのまわりで、氏子たちによって船渡御や花火などの神賑(しんしん)行事が行われ、戦後はさらに駅のポスターや見物ツアーなどによって観光行事が加わりました。観光客は、この全部を伝統的だと感じるのです。
  御堂筋パレードや神戸まつりに、そういう演出を加えてみたらどうでしょう。神戸まつりも、たとえば生田神社で起こした火をもらって行列に参加すれば、見に来た人は何か古くからのいわれがあるんだろうと安心を感じるでしょう。擬似伝統は、年数を重ねたら本来伝統になるんですよ。伝統というと、本物でないとダメだと考えがちですが、この本来伝統と擬似伝統の関係をうまく使う知恵が欲しいですね。
 
ベイエリアで伝統の祭を新しく
a 四天王寺ワッソは、とても新しいお祭りなのに、擬似伝統をうまく取り入れていると思います。今、資金難で苦しんでいるようですが、続けることができれば、御堂筋パレードを超えると思いますよ。御堂筋を使う権利をワッソに譲ってもらえないかと思うくらいです。今の、ワッソだけでは寂しいでしょうが、朝鮮半島との交流を描いているこの祭りは、豊かに膨らますことができます。
  古代は朝鮮半島とこんな交流をしました、近代は南蛮とこんな交易がありましたなど、大阪の国際交流都市としての歴史を見せるお祭りにするのです。天神さんにも登場してもらいましょう。なんといっても、渡唐天神ですからね。海外からきた観光客も、国際都市大阪の歴史が目で見て理解できますよね。
ほかに、私が、ベイエリアで注目しているのは、西宮神社です。400年ほど途絶えていた船渡御を、2000年に復活したんです。天神祭の100艘に比べると、まだ寂しいですが、海でやっていますから、橋の高さの心配もないし、将来、船の数が増えても困りません。最初は港の中をくるっと回るだけでしたが、2002年からは神戸の和田岬まで行くようになりました。西宮神社は、昔、和田岬で引き上げられた神様の像を祭ったという伝説があるのです。擬似伝統を感じるでしょう? 数年もすれば、みんな、400年の中断があったことなど忘れて、1000年前から続いていると思いますよ。実は、うちの大学も船を出しているんです。ヨットハーバーの協力で船を借りて、美術科の学生が船を飾る布を染めてね。産学連携じゃなく神学連携ですね。西宮には短期大学・大学が10もありますから、大学で祭りを盛りたてるようになればいいですね。
  中心に神事をおいた祭りを考えるのに、海はとてもいいテーマですよ。八十島祭を見てわかるように、海から国を治める力をもらおうとした。昔の人たちは、地球上の命が海で生まれたことは知らないのに、不思議ですね。潮の香りに命の源泉を感じるのは、島国に住む人の「血」ではないでしょうか。
  ベイエリアを祭りで盛り上げる方法はたくさんあると思います。やってみたいアイデアもいろいろあります。祭りを通して、海にもっと親しめるようにしていきたいですね。
 



ちょっとウンチク  えべっさんは海の神

七福神で唯一の国内神
 宝船に乗り様々な福を届けてくれる七福神。七神のうち「天」がつく大黒天、弁財天、毘沙門天は天竺(インド)の神様。布袋、福禄寿、寿老人は中国の信仰が元になっている。エビスさんだけが、日本独自の神様だ。エビスを記す字は、夷、戎、恵比寿、恵比須、蛭子、胡……とたくさんある。異邦人や辺境に住む人という意味の「エミシ」が語源で、日常の外から福をもたらす神様とされている。
  宝船は、米俵や財宝を載せて港に入ってくる。つまり輸出ではなく輸入の場面を描いている。価値のあるものは海の向こうから運ばれてくるという、舶来嗜好の表れだろうか。日本人が舶来モノを好むのは、最近のことではないようだ。

大漁から商売繁盛へ
 釣竿を持ち大きな鯛を抱えているエビスさんは、もともと、大漁をもたらす神様だった。今でも全国の漁村にはエビスさんを祀る祠がある。それが、魚を扱う市場の神様となり、さらに商売繁盛の神様という性格を持つようになった。
  エビス信仰の総本宮である西宮神社では、かつては、十日戎※1のお参りに、たくさんの漁師が訪れた。瀬戸内海の漁村から船に乗り早朝に西宮港に到着、参拝して、福を逃がさないようにと、すぐに帰路についたという。
  商売人も列車に乗って遠方から訪れた。
  夜明けには、夜を徹して船を走らせてきた漁師と、前夜から近くの宿で待機していた商売人が、大勢、境内になだれ込んだという。最近、全国的に知られるようになった福男選び※2も、敬虔な祈祷者たちに幸あれと始められたのだろう。

神代の昔の海の神様
摂津の国の「一の宮」とされる、由緒正しい住吉大社。大阪では、初詣は「すみよっさん」と決めている人も多い。
  ここは、全国に2千以上もある住吉神社の総本宮である。住吉神社に祀られているのは、底筒男命(そこつつのをのみこと)、中筒男命(なかつつのをのみこと)、表筒男命(うはつつのをのみこと)の三神。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、死んだ妻を追って黄泉の国へ行き、戻ってきて海で禊(みそぎ)をしたときに生じた神だ。そして、住吉神社は海の神様、航海安全の神様として信仰を集めることになった。ちなみに、筒とは星を意味し、三神は、オリオン座のベルトにあたる3つ星を指すという説がある。さすが航海の神様、天文とも関係が深いのである。

日本の種類別博物館数および博物館類似施設数(平成14年度)

※1 正月10日に行われる、商売繁盛を願う関西のお祭り。
※2 西宮神社で1月10日朝6時に開門神事が行なわれ、拝殿に最も早く到着した3人を
福男として祝福する。
※3 道修町にも祀られている薬の神様。

住吉大神の応援で
 住吉神社にはもう一柱の神様がある。14代仲哀天皇(在位は西暦192~200年とされる)の后、神功皇后だ。亡くなった夫に代わり新羅と戦って制圧したという女傑で、その船を住吉の神が守護したという伝説がある。この神功皇后が遠征からの帰路、住吉三神を祭ったのが起源とされる神社が神戸市垂水区にある。
  その名も、海神社。「かいじんじゃ」と呼ばれるが、正式には「わたつみ」神社と読む。毎年、10月には海上渡御が行なわれ、美しい旗で飾った船が、明石海峡大橋をバックに勇壮な祭りを繰り広げる。

淡嶋神社の雛流し神事
 神功皇后の凱旋にまつわる神社が、和歌山市の加太にもある。嵐にあった皇后が神のお告げの通りに船を進めると、無事に友ケ島にたどり着いたので、宝物を供えた。後に、皇后の孫の仁徳天皇が社を対岸の加太に移したのが、淡嶋神社の始まりと言われる。
  この神社では、3月3日に雛流し神事が行なわれる。人々の願いを込めた人形を乗せた船が春の海を「神の国」へと進む。色とりどりの衣装をまとった人形が、日差しを受けながら浮き沈みする様はとても美しいという。
  雛人形の男雛、女雛は、友ケ島に祀られていた少彦名命※3と、神功皇后、男女ふたりの神像が元になっている。



そこに生きる人 「地域の祭りとして」
  田花一康
さん
  住吉大社総代・住吉祭後援会会長
 
田花一康さん「住吉大社の祭りの歴史は古く、それを支えてきた多くの先輩方がいます。その先輩方が培ってきたものをさらに良いものにして引き継いでいくことが役目だと思っています」と語る田花さん。住吉祭後援会会長を6年つとめてきた田花さんに祭りへの想いを語っていただいた。
 
地元の人と深く関わってきた祭り

 私は住之江区に住んでいて、連合会長を務めてきました。住吉大社総代や祭りの後援会会長になったのは、当時の会長だった住吉区連合会長がけがをされたため、代わりに引き受けることになったものです。
  住吉大社の祭りで有名なのが、「神輿洗神事」と「住吉祭」です。
  「神輿洗神事」は住吉祭の堺渡御に先立ち、海水で神輿を洗い清める儀式です。大阪湾の海上安全を祈願するものでもあります。昔は6月15日の満潮の宵に長峡(ながお)の浦で行われていたそうです。この日の潮を浴びると病も治る「住吉の湯」と言われ、人々が盛んに海に入っていたそうです。今は海の日(今年は7月19日)に南港ATCオズ岸壁で、沖から汲んできた海水でお祓いをしています。南港まつりに合わせて行われますが、神事色の強いものです。
  「住吉祭」は、私は「住吉大社の祭りではなく地域の祭りだ」と言い切っています。7月30日の宵宮祭から31日の例大祭・夏越祓神事(大阪府指定無形文化財)、8月1日の堺への神輿渡御祭(おわたり)・荒和大祓神事(あらにごのおおはらいしんじ)と3日間に渡って行われるものです。中でも神輿渡御祭は、住吉大社第一本宮前から紀州街道を通って堺市宿院頓宮まで、地元の人々が練り歩き、家の前を通る神馬に手を合わせるという地元の祭りです。昔は神輿をかついで練り歩き神職は騎馬で宿院に向っていたそうです。大和川で大阪側の住民から堺側の住民へと神輿が引き渡される際は、けんか神輿のごとく、なかなかの迫力で見物客も多く賑わったそうです。しかし、車社会になり、いつしか、神馬をトラックに乗せて頓宮まで行くだけの味気ないものになっていました。地元の人は天神祭に比べて趣がないと嘆いていました。

住吉祭・神輿渡御祭

祭りが生み出す人のつながり
 現1980年代後半に、住吉名勝保存会が中心となって各地の祭りを見て歩き、地元の祭りとしてのおわたりのあり方を再考し、船神輿を造りました。90年に住吉大社に奉納してからは、住吉区と住之江区から各50名の子どもたちが船神輿を引っ張って歩きます。大人25名も一緒に歩きます。私も83歳になりますが、かみしも装束、白足袋に草履といういでたちで大和川まで歩いています。夏の一番暑い時期ですから、熱射病と食中毒、それに、片側に車が通っている道で行いますから、子どもの写真を撮影しようと道に飛び出す親御さんには気を使います。
  また、祭りの1週間前から通り道にしめ縄を張るようにしました。各町会がやってくれているのですが、これが住民の参加意識も高めているようです。
  6月から祭りに向けて大阪市、堺市と地域や年齢を超えて60名以上が準備のための会議を行います。各町会の動きを含めると数えきれない人が関わってくれます。地域も世代も超えた私達の祭りをもっと充実させていくことが地域づくりにもつながる。彼らが地元に帰って一杯飲む、そのふれあいこそが祭りがつくり出す人の輪、つながりだと思います。
 

◆たばな かずやす
大正10年生まれ。大阪市住之江区在住。昭和28年阪陽機械工業を設立。現在、大阪市住之江区社会福祉協議会理事(会長)、大阪市ボランティア情報。

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