倉光 |
私が「なぎさ海道」の話を聞いたとき、最初に思い出したのは、昭和40年代の「入浜権運動」ですね。これは兵庫県の高砂の男性が、海辺は工場に占領されて、人間から切り離されて汚くなっていった。本来渚は、誰にも属さないもので、いつでも自由に入ることができるものだ、として、これを入浜権と名付けて運動をしました。当時は未だ、そんな権利はどの法律にもないということで、なかなか認められませんでしたけれど。
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難波 |
確かに当時日本の海岸は、みんなコンクリートで固められて、工業用地だけになっていた感がありますね。
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倉光 |
時代が変わって、埋め立てが罪悪のように言われていますが、以前はある意味で進歩であり成長だとされていました。しかし実際には、現代の状況は中途半端とも言えるでしょう。
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西 |
ここしばらく景気が悪いことも、原因になっているのじゃないですか。開発と言っても、なかなか思うようにはいきませんでしょう。
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難波 |
今はそうですが、遡ってみれば大阪では、海岸線を埋め立てる前は、堀川を埋めてしまったでしょう。それが終わって次は海、となったような感じがしませんか。
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西 |
ちょうど大阪で堀川が埋められている時代に、私は北陸から嫁いできました。長堀が埋められて、堺筋から市電が姿を消したころです。
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難波 |
私も昭和30年代の長堀は、はっきりと覚えています。島根から大阪に来たころ、四つ橋にあったプラネタリウムを見に行ったのですが、橋だけが残っていて、水はありませんでした。でも長堀そのものは昭和35年にも残っていたはずで、材木が一杯浮かんでいたという記憶があります。どちらにしてもほぼ昭和50年代半ばには、大阪における堀川の役目は終わったみたいですね。むしろ邪魔者扱いされて、どんどん埋めて高速道路を作って。その延長で、今度はベイエリアを埋め立てていったのです。そう言えば倉光さんは、お隣の鳥取のご出身でしたね。
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倉光 |
そうです。昭和29年くらいから京都にいて、大阪が変化を始めた昭和33年にガスビル(大阪ガス)に入ったのです。
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難波 |
当時御堂筋で一番大きなビルですね。
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倉光 |
最初は大阪に馴染めませんでしたが、ちょうど新旧交代の時期にあたっていたこともあって、何となく関心を持つようになりました。
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西 |
それが今も続いていらっしゃるのですね。ところで、私は四天王寺に近い松ヶ鼻というところに住んでいますけれど、上町台地の端に松が一本生えていたというところからきたといいます。同じように大阪は水の都、あるいは八百八橋と言われたほどで、町名や地名にもその名残があるのではありませんか。
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倉光 |
そう見えますでしょう。ところが調べてみますと、大阪の地名や橋の名前は、案外いい加減につけられているようです。まことしやかな町名だから、これはきっと何か由緒があると思ったら、全然なにもないとか、昔あった橋が無くなったけれど、いい名前だからこっちの橋につけちゃえとか(笑)。難波・橋でいうと、江戸と違って大阪の橋は町衆が架けたものが多いでしょう。ですから統一する考えもなく、自分たちの好きな名前をつけたのじゃないでしょうか。それに八百八橋と言っても、実際には160か170程度しかなかったようですね。
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倉光 |
それは大阪という区切りを、どこまでにするかによって違ってくるでしょう。江戸時代の難波という三郷だけならば120ほどです。要するに八百八というのは、多いという意味でしょう。
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西 |
中国的な白髪三千丈のたぐいですか(笑)。
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難波 |
そこまでいかなくても、九十九里浜や千羽鶴の仲間でしょう(笑)。確かに倉光さんのおっしゃるとおり、範囲をどこまで広げて見ていくかですね。
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西 |
小川に掛かっている小さな橋や丸木橋まで入れますと、800どころでは済まないのではありませんか。
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難波 |
船場や島之内あたりの堀に囲まれたところでは、橋を渡って入ると、ぐるぐる回らなければ出られない形になっていたようです。防犯の意味もあったのでしょうが、そういうものまで入れるとなると、果たして幾つあったのか見当もつかなくなりますね。
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倉光 |
そう考えていくと、ますます何がなんだか分からなくなってきますよ(笑)。まぁ、そういう適当さが大阪的でいいのかも知れませんが(笑)。
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