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広報誌『O-BAY』
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川がつなぐ人・街・海
世代を超えて愛される心の川、そして海を
 
  Interview 角野 昇八さん〈大阪市立大学大学院教授〉
角野 昇八さん◆かくの しょうはち
1947年生まれ。大阪市立大学工学部土木工学科卒、同大学大学院工学研究科修士課程修了。工学博士。大阪市立大学助手、講師、助教授、1999年から現職。2002年同大学評議員。この間ハンブルグ大学およびコーネル大学で客員研究員。専門は水工水理学、河海工学。著書に「防災事典」(共著)など。

 私は、もともとは海岸工学が専門です。河川については、授業をする必要性があって勉強しはじめました。そして、大阪の淀川や大和川などをはじめ、どの川も、長いおもしろい歴史を持っていることに気がつき、人々の心や文化の側面で川を見てみたいなと考えて、今、いろいろな勉強をしています。
  最近、美しい川、愛される川を再生しようという動きが、市民から行政まで、さまざまなところで活発になっていますね。工学の世界でも「感性工学」、つまり、人の気持ちを大事にする工学を実現しようという動きがあり、私は、この感性工学的な視点で、川を考える仕事をしていきたいと思っています。
 
すヾしさに四橋をよつわたりけり
 私たちの生活の中で、川が果たす役割として、まず、あげられるのは排水です。下水を流し、洪水を排除する、身体の中で言えば静脈です。これに対して動脈は物流ですね。
  古代、7世紀頃では、大陸の文化を伝える珍(たから)物が、当時の大和川を通って飛鳥京などに伝わりました。実際に運ばれていたのは物ですが、生活物資を大量に運ぶのと違って、これは、大陸からの情報の伝達です。つまり川が神経網の役割を果たしていたのだと思います。
  中世以降、神経網の役割は低下しましたが、静脈、動脈の役割は、変わらずにありました。そして、文化の成熟にともなって、川に「安らぎの場」という役目が出てきます。
  江戸時代、大阪では、数年にひとつ川が開削されていました。それは、動脈、静脈の役目を果たすためですが、市民の生活の中に、川が生まれ、非常に近い存在として、定着する。大阪は昔から緑の少ないところでしたから、市民は、涼を求めて川に行ったのです。
  四ツ橋の交差点の東側は、かつて、長堀川と西横堀川が交差し、そこに四つの橋が井桁状にかけられていました。今、ここに、四ツ橋を再現した記念碑があって、小西来山の有名な句の碑も建てられています。
  「すヾしさに四橋をよつわたりけり」
  井桁状の橋を四つ渡ると、もといた場所に戻ってしまいますよね。何か、目的があって橋を渡ったのに、川岸に樹木もあるし、釣りをしている人もいるし、なによりも風が渡って涼しいな、気持ちいいなと、思わず1周してしまった。そういう句です。なんとも、風流でしょう? 川は庶民にとって安らぎの場所だったのです。
  近代になると、それまでの舟運が鉄道に取って代わられて、川は動脈の役割を失います。大阪市内に開削された川も、多くが埋め立てられて道路に姿を変えました。空間的にも、気持ちの上でも、川が生活から遠ざかり、その役割は静脈だけになってしまいました。
  気障っぽい言い方ですが、かつて、川は、必要性が認められていたのはもちろんのこと、愛される存在でした。そんな人と川との関係を取り戻したいですよね。
 
あなたにとって原風景の川とは
 この100年ほどの間に、川は急速に姿を変え、同時に私たちの生活から遠ざかってしまいました。ですから、原風景としての川のイメージは、世代によって大きく違います。今、二十歳前後の学生にとって10年というのは極めて長い年月で、20年前のことは知らないわけです。
  私は、昭和30年代に撮影された豊岡の円山川の写真、正確にはその支流の出石川になりますが、農作業をしているおばあさんがいて、牛がいて、コウノトリがいる、自然と人間の共生を見事に象徴している写真を見て、「原風景としての川」を感じました。私自身は、堺で生まれ育ち、コウノトリがいるような風景を実際に見たわけでは無いですけれど、イメージとして感じることができます。
  しかし、これを今の学生に見せると、「どこの国の写真ですか?」と言われるでしょう。
  川のイメージにずれがあるのです。今、川を再生しようという取り組みがたくさんありますが、若者に任せたら、無機的な川をつくってしまうかも知れません。それが、彼らにとっての、原風景なんですから。
  逆に、先ほどの、コウノトリのいる川に戻そうと言っても、それは無理な話です。帆船による舟運が盛んだったころの風景が良いからといって、それを再現するのは現実的ではありません。
  また、自然の豊かなところで暮らしている人にとって、川は、豊かな自然の中のひとつ、ワン・オブ・ゼムでしかないかもしれません。逆に大阪市内では、昔から川が唯一の自然でした。そして、現代では多くの地域で、同様に、川が残された最後の自然になっているように思います。
  世代、育った場所によって、原風景としての川、望ましいと思う川の姿は違います。川を再生すると言う時に、どんな風景を目標にして整備すればいいのでしょう。単純に多数決のようにして目標を決めたのでは、望ましい姿にはならない可能性があると感じています。
 
変わる河川整備の考え方
 明治以降、西洋的自然観が輸入され、自然は人間の制御の対象、コントロールの対象であるという考え方で河川整備が行なわれて来ました。それが、最近、東洋的な自然観、自然と人間は共同体であるという考え方に回帰していると思います。
  市民の側も、自分の生活が大変だった頃は、行政に対してとにかく洪水がないように整備してくれたら文句は言わない、という状況でしたが、最近、川に目を向ける余裕ができて、「勝手なことをしないでくれ」ということになっているように思います。
  河川行政も、大きく変わっていますよ。
  明治29年に河川法ができて、ずっと「洪水排除」の治水が行なわれてきました。昭和39年に改正されて「利水」という考え方が加わり、平成9年の改正で「環境」という考えが入りました。さらに、平成12年の河川審議会の答申で、これはまだ法律には反映されていませんが、「洪水許容」の治水という考えが出されています。
  なにがなんでも洪水を防ぐ、何百年に1度の大雨にも備えるという確率論的な考え方から、防ぎ切れずに氾濫したときに被害をどう抑えるかという考え方への転換です。
  昨夏、洪水被害がでたドイツのエルベ川流域は、その下流域では、ふだんは洪水よりも高潮の危険が大きい場所です。そのため、防潮壁がつくられているのですが、一部、それが無い場所があります。川のすぐそばに家があります。でも、そこに住んでいる人が、防潮壁よりも、川の見える風景を選んだのです。もちろん、多くの家は高台になっていて、それぞれに、水門をつけて、すぐには家が水に漬かるようなことにはならないのですが、何年かに1回は、かならず、高潮が起こる場所ですよ。
  街のあちこちに、「何年の高潮では水がこの高さまで来ました」という注意書きが張られて、そこまで水が来ることを想定して生活している。
  これは、街の住民すべてが、覚悟を決めて、堤防をつくらないことに合意しないとできないことですから、その合意形成の過程や方法を知るために、詳しい調査に行きたいと思っています。

ドイツ・ハンブルグのエルベ川河畔

 
「日本最後の清流 四万十川」
 最近、四万十川に行ったのですが、地元の人から「四万十川を特別な川とは思っていない」という話を聞きました。近くに、仁淀川、物部川があり、徳島には吉野川がありますが、川としてはさほど変わらないと言うことなんですね。では、なぜ、四万十川だけが、日本全国から注目を浴びるようになったんでしょうと聞いたら、それは昭和58年にNHKでとりあげてもらったからだと。キャッチフレーズは「日本の最後の清流、四万十川」。これが、四万十川のイメージとして、日本人の心にビシッと刻まれているんですね。四万十川は、すべての日本人にとっての心の川となったのです。
  もちろん、イメージだけじゃなくて、四万十川では、今も漁が行なわれています。川に生活がある、そして、漁師がいることを、地元の人が知っている。生活の中の川――これも重要なことです。
  大阪で言うと、たとえば道頓堀川。四万十川とはずいぶん様相の違う川ですが、大阪人の心の川になっていると思います。何かあると、飛び込む人がいますが、戎橋から道頓堀川に飛び込むことに意味があるので、他の川には飛び込まないでしょう?
  これは、川のブランドイメージです。ブランドイメージには様々な要素があります。長い伝統や歴史を持つ水辺の事物、たとえば、橋、屋形船、建物。お祭りや鵜飼いのような行事。詩歌や文学作品の舞台になっていること。熱心な市民活動が展開されていること。
  川をめぐる物語が数多くあればあるほど、川のイメージが人々の心の中にとどまる度合いが強い。すなわちブランド性が高くなるのです。
  そして、その物語が、メディアに何度も取り上げられることによって、ブランドイメージが固まって行くのです。
  地元の川にそういうものが足りなければ、つくっていけばいいのです。地域の人、老若男女みんなが共有できる物語を発掘し、創造する。それが親から子へ伝わって行けば、再び愛される川が創造できるんじゃないかなと思います。
  ですから、まずは、人々の心の中にある川を再生する必要があるのではないかなと思います。
  川というのは、これは、河内厚郎さんがおっしゃっていたことですが、非日常的な空間です。水は気持ちいいものですが、恐ろしいものでもあります。もやもやした草が生えていると、何がいるか分からない。もしかしたら、河童がいるかもしれない。そういう非日常性を経験できる空間ですよね。
  また、よく、人は川の流れを見て人生を振り返ったりします。感性に訴えかける、あるいは感性を育む。それが、心の中の川です。下水を流してくれてありがとう、洪水を防いでくれて安心です。ではなくて、それ以上のこだわりを持てる川をつくることが重要です。
 
海にまつわる時空間的魅力を1,300万人で
 川辺と海辺とを比べると、圧倒的に川辺に住んでいる人のほうが多いですよね。それだけ文化もたくさんあります。市民の活動が海よりも川の周辺で起こるのは、自然なことだと思います。
  川が憩いの空間や非日常性などを人に提供すると言いましたが、海には川にはない広い空間と潮の香りがあって、大きな開放感を味わうことができるはずです。そういう意味では、海のポテンシャルはとても大きいのに、それを実感できる場所が少ないのは、非常に残念ですね。
  ブランドイメージもたくさんあります。羽衣や浜寺の松にしても長い歴史や物語があり、神戸にも歴史的に由緒あるところがいっぱいあります。ベイエリアの過去を調べて、昔の海辺の使い方、楽しみ方を、もう一度、見てみるのも重要だと思います。ベイエリアの空間的、時間的な魅力を発掘し、活用して、人の心の中にあるベイエリアを作り上げることが大切なのです。「なぎさ海道」という資源も、互いに有機的につないで物語を感じるようにすれば、さらに楽しいものになると思いますよ。
  川辺に住む人の方が多いと言いましたが、大きく、大阪湾岸に暮らす人と考えると、1,300万人もいます。川の場合と距離感は違いますが、その距離感なりのつきあい方、親しみ方があるでしょう。そして、大阪湾には、豊かな歴史があるのですから、発掘次第で、いくらでも、可能性はあると思いますよ。今、盛んになっている川を巡る動きと同様に、海をめぐる動きが、大阪湾から起こることを期待したいですね。



ちょっとウンチク 川の流れるものがたり

天野川の七夕伝説
天野川周辺マップ 生駒を水源とし、交野市から枚方市を経て淀川に注ぐ天野川。この川を挟んで東、倉治の機物(はたもの)神社は織女星を祭り、西の中山観音寺跡には牽牛石とよばれる石がある。けれど「ここが七夕伝説発祥の地?」と考えるのは早とちり。七夕伝説のルーツは中国だ。
  かつて、この地は、甘野(おいしい米のとれる野)と呼ばれ、桓武天皇の時代から、四季折々の美しさが、多くの宮廷人に愛された。ここは、平安の七夕伝説テーマパークなのだ。
  甘野川から天野川に名を変えた川に架かる橋の名は逢合橋(あいあいばし)。カササギが翼をひろげて、ふたりの再開を助けるというエピソードにちなむ鵲橋(かささぎはし)もある。一帯には、星田、中宮(北極星)という地名も多く残る。天上の恋物語と平安宮廷人の風流。ふたつのロマンを楽しみながら、探索してみよう。

ご神託にNO!

 日本で最初の治水工事といわれているのは、日本書紀に記述のある茨田堤(まむだのつつみ)。淀川河川公園太間地区(寝屋川市)に、石碑が残っている。太間とは元は絶間(たえま)、堤防の決壊しやすい場所という意味だ。
  仁徳天皇11年(323)、堤防工事が始まったと伝えられているが、何度、堤を築いても少しの増水で流れてしまう場所が2カ所あった。碑のある寝屋川市太間と大阪市旭区の千林であるといわれている。
  やがて、天皇が夢で「武蔵の強頸(こわくび)と河内の衫子(ころものこ)を以って河神を祭れ」という神託を受ける。要するに人柱だ。
  強頸は泣く泣く川に身を投げたが、衫子は「真実の神ならこれを沈めてみよ」と川に瓢箪を投げ入れる。中が空洞で栓をした瓢箪は、もちろん沈まない。それを見た人たちは、神を恐れる必要はないと悟り、工事に精を出して無事に堤を完成させたという。
  4世紀。天皇の受けたご神託に、合理的に異を唱えることができたとは驚きである。


主人公の心を映す川
 作家宮本輝氏が名声を確立した「川三部作」。「堂島川と土佐堀川とがひとつになり、安治川と名を変えて……」という書き出しで始まる「泥の河」の舞台は昭和30年の大阪。河畔に住む少年が主人公だ。「蛍川」は富山市が舞台だが、「道頓堀川」で再び大阪へ。川の流れが、幼年期、思春期、青年期、三部作それぞれの主人公の心を映す重要な役割を果たす。
  有吉佐和子氏の代表作で、明治から昭和まで、紀州旧家の四代にわたる女性の生きざまを描いた「紀ノ川」。登場人物たちは、時にふれ、人生を川の流れに重ねあわせる。
  平成10年秋からの「NHK朝の連続テレビ小説」に淀川を登場させた「やんちゃくれ」。ドラマは昭和54年から始まる。川べりの造船所をめぐる人間模様に、ほんの少し時をさかのぼると、人の暮しがずいぶんと川に近かったことを感じさせた。

堂島川と土佐堀川とが合流し安治川となって大阪湾に注ぎ込む


交響幻想曲「淀川」
 道頓堀は時々、演歌に登場しているが、大阪湾に注ぐ川の名前を織り込んだ歌は、意外と少ない。
  川にまつわる記念事業で作られた曲が、見つかったので紹介しよう。
  平成6年、大和川クリーンキャンペーン10年目を記念してつくられたのは「大和川慕情」。中村美律子さんの歌でCD(非売品)がつくられた。
  昭和49年、淀川改修100年を記念してつくられたのは、その名もずばり「淀川」という交響幻想曲。これは、ホームページで聴くことができる。お試しを。

http://www.yodoriver-net.jp/ototoe/genso.htm




そこに生きる人 「水防一筋に」
  小林俊一
さん 
  淀川右岸水防事務組合水防団長
 
小林俊一さん 「自然の力は人知を超える。今は平穏でも、いつ起こるかもしれない洪水、高潮に対して地域住民の盾となれるよう努めています」と語る小林さん。48年間の水防団員の経験をいかし、後輩の育成と団員の指揮にあたる小林さんに水防団の活動などについてうかがった。
 
我々の手で水防を
 水防事務組合や水防団というのはみなさんにとって聞きなれないものかもしれません。水防事務組合は市町村が単独で水防に関する責任を果たすことが難しい場合などに関係市町村が共同して設置するものです。また水防団は、水防管理団体が水防活動を行うために設置していまして、消防団があるところでは兼務することが多いのですが、我々の組合の区域内は消防団のないところが多く、ほとんどが専任の水防団員です。
  我々の組合は、1917年の「大塚切れ」による淀川大洪水をきっかけに、災害の防止と堤防の保護を、地域住民自ら団結して行おうと1926年に創立した「淀川右岸水害予防組合」を前身としています。1958年3月の水防法の改正で、1960年に地方自治法に基づく水防事務組合に改組して現在にいたっています。防御区域は島本町から大阪市まで6市1町。河川は、淀川、水無瀬川、桧尾川、芥川、安威川、神崎川、中島川、西島川、左門殿川など、また、防潮筋として大野川、中島町防波堤、西島町防潮堤があります。ここで45の防御区域を定めて、水防団員総数2,901名で水防に努めています。
  昔は、水防団員になるための資格がありまして、土地一坪以上、家一軒以上持たないものは入ることができませんでした。しかも世襲制でしたからね。それだけ団員になるということは誇りでもあったのです。まあ、今はどなたでも入れる組織で、逆に意識の高い方に入っていただきたいと思っています。

水防訓練時の小林俊一団長
地域住民の命と財産を守るために
 水防に関わってきた歳月には想像を絶する事が何度もありました。
  特に忘れもしないのが1967年7月9日の梅雨前線による局地集中豪雨の時のことです。安威川が決壊し、人家に浸水しました。団員の必死の活動にも関わらず、下水道用のマンホールから逆流噴出し、浸水水位がどんどん高くなる。その原因を調べると、安威川下流である神崎川に下水流出口があり、そこから濁流が大きく渦を巻きながら逆流していることがわかりました。
  その当時私は分団長をしていましたが、すぐに団員8名を召集し、この逆流口を防ぐことにしました。方法は誰かが逆流口に土のうを投入することしかありません。そこで、私は体に命綱を二重に巻きつけ団員6名にその綱を持たせ、水中に飛び込み、土のう20俵を逆流口に投入し、マンホールからの噴流を阻止することができました。私が水面から上がってくると、堤防上で固唾をのんで見ていた避難住民の方々からどよめきが起こり、万歳の声がこだましました。その時「やった!」という実感とともに責任を果たせた満足感を味わったのを覚えています。
  最近は私たちの区域に大きな台風や集中豪雨もなく、淀川をはじめ各河川は関係当局の治水対策事業が進み、出動回数も少なくなっています。年に1回、その地域に応じた水防訓練の他には、大雨時の堤防の監視、水防倉庫の管理などが主な活動でしょうか。
  しかし、自然の力は人知を超えるということを、一昨年の東海水害、ヨーロッパの水害は教えてくれています。起こってほしくないことが起こった時に、地域住民の方々の命と財産を守るために、同じ地域の者ができることをやっていかなければと思います。その危機感だけは水防団員全員が持てるように団長として努めています。

◆こばやし しゅんいち
1922年生まれ。大阪市東淀川区在住。米穀商を営む傍ら1954年水防団に入団、分団長、副団長を経て、1986年より水防団長。



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